音楽教育における九九の発見

Last-modified: Thu, 20 Dec 2007 09:07:08 JST (3957d)

 「私は音痴でありますが…」というセリフを何度聞かされたことだろう。それは、町長さんであったり、村の教育長さんであったり、時にはその地域の校長会の会長さんであったりした。いずれも日本人として、ひとかどの教養を身につけた知識人である。その人たちが、児童・生徒の集まった音楽会の開会式で、あるいは、○○音楽教育研究会の席上で、晴々とした顔で言うのである。

 本人は謙遜のつもりであり、ユーモアを交えた挨拶のつもりなのだろうが、聞かされるたびに、やたらに腹が立つ。音楽的教養などというものは、人格形成に何の関わりも持たぬものだと信じている者でなければ言えぬセリフだからである。少なくともその人にとって、音楽的教養が無いということは何ら恥ずべきことではなく、自己の人格上の欠陥ではないという認識に立たなければできぬ発言であろう。このような認識を持つ人の挨拶に内容があろう筈がない。全くの時間の浪費である。

 例えば、「私は九九ができませんが…」という前置きで始まる算数教育研究会の挨拶を想像してみる。もしそれが事実だったとすれば、本人は恥ずかしくてとても言う気にはなるまい。謙遜としては奇異なものだし、ユーモアにもならない。要するにそのような発言は、公の場ではあり得ないであろう。「九九ができない」ということはかなり重大な欠陥であると言うのが常識であろうから。そしてそれが常識であるのは、明治を遥かに遡る古い昔からの、日本の算数教育の成果なのであり、「九九ができる」ことを常識で在らしめ続けるために、小学校の先生方の努力は現在も休みなく続けられている。

 翻って、再び繰り返して活字にする気にはなれぬ(やまいだれ)を持つ字を自らに冠した冒頭の発言は、残念ながら、音楽教育のー明治百年も過去のことになった現在のー成果なのである。「歌舞音曲の類い」という侮蔑的な言葉で、音楽が平均的な日本人にとって必須の教養であることを認めるのを拒否して来た知識人たちの意識を変革させ得なかった音楽教育は、間違っていたのか、あるいは努力が足りなかったのか。「当分缺クコトヲ得」るという一片の但し書きによって他教科に立ち遅れた音楽教育が、百余年を経た今も、日本人の基本的教養として音楽は「当分缺クコトヲ得」ると思っている知識人たちを横行させねばならぬほどに立ち遅れているのはなぜか。何が欠けていたのか。そして今、何が欠けているのか。

目標が確立されていない

 音楽教育の目標は、10年ごとの学習指導要領の改訂の度毎にその字句が変わるようなものであってはならない。音楽教育関係者と行政官だけで、作成時点でのいわばハヤリコトバを用いて飾り立てられるような作文であってはならない。日本人としての理想の人間像が想定され、それに基づいて策定された不変のもの、いわば<憲法>でなければならない。

内容があいまいである

 日本人としての理想の全人像に備わっている音楽的教養とは何か。その内容は。そこがあいまいである。きわめて基本的な、例えば、九九ができることによって計算能力が飛躍的に伸びるといったような、いわば音楽教育における九九の発見と、それを学習させるためのシステムの開発が必要である。音楽教育における九九とは何か、このことへの模索が幾らかでも具体的に結実したのが、前回の学習指導要領に示され、改訂によって薄命を断たれた「基礎」ではなかったのか。

 「基礎」の設定による現場での誤解や混乱は、予想された通り確かにあった。当時、指導主事として県下各地で趣旨説明を行い、施行後の指導を担当していた私は、それに関する多くの場面を体験した。 例えば和声の指導。いきなり、「ポン」と和音が鳴る。「これは何の和音ですか。Iですか? Vですか?」それが鍵盤上でどの音に当たるかが分かるのは、じっと鍵盤を見詰めている先生と、街の○○音楽教室でその能力を身につけているごく僅かの子供たちだけだ。しかもそれは、IでもVでもない、機能を持たぬ単なる三和音でしかない。しかし、このような誤解に基づく指導は、誤解を正すことによって適切な指導になり得るのだ。少なくとも、その研究授業に居合わせた先生方は、後刻の研究協議の場で、正しい和声の指導のあり方について理解していただけた筈である。

 「基礎」の内容が改訂によってすべて失われてしまったわけではないとしても、これはやはり朝令暮改である。少なくとも二世代くらいは「基礎」の定着に要する期間として設定した上で、指導方法の研究改善に努めるべきだった。そうしなければ「基礎」が、音楽教育における九九であり得たかどうかの 判断は不可能だったのではないか。

何を教え得るのか

 「教え得るもの」は「教え得たかどうかを測定できるもの」であろう。評価の可能なものこそが教育の内容といえる。そしてそれは、主として技術と知識であろう。くどいようだが「基礎」は、感性に基づいた技術と知識の内容を、段階的に示したものではなかったのか。模索であり、多くの問題点を含んではいた。しかし、無くすることによって新しい発展が期待出来たであろうか。無くなったことによって現に音楽教育は輝かしい成果を収めつつあるのか。私にとっては未だに、「基礎」を無くしたことの積極的な意味が理解出来ない。そして恐ろしい予感がする。

 音楽教育にとってシステムは不要だ、やってみたが無駄であったと、あるいは邪魔であったと、音楽教育の関係者が口を揃えて社会に対して公言したのだ。いわば、自らの口から、音楽の教科性を否定してしまったのだ。音楽など学校教育の教科としては不要だとする根強い主張に強力な根拠を与えたことになる、いや与えてしまったのだ。高等学校はおろか、中学校においても、あるいは明治以来平穏に安住の地を保ち続けて来たかに見える小学校における音楽教育にとってさえ、その存在を根底から揺るがせる重大な危機に直面しているのではないか。

 次期の教育課程の改訂作業は既に進行している。そして改訂時における各教科への週当たり時間数の配当は教科間の時間の奪い合いの結果決定される。それぞれの教科が、正当な根拠に基づいて時間増を要求するのだ。結果的に奪い合いになるのはやむを得まい。少しでも弱点を持つ教科が負けになる。

音楽教育における九九の発見

 音楽教育にとっての九九とは何かを、真剣に考えなければならない。九九の暗唱は楽しいものではなかった。年長の兄弟たちや親たちの誰でもが当然のこととして言える九九が、すらすらとは言えぬ時期が、誰にでもあった。九九のために、楽しい筈の家族の団欒の時を味気ない思いで過ごさなければならなかった記憶を誰もが持っていよう。音楽における九九も、必ずしも楽しいものではないかもしれぬ。しかし、努力することによって誰でもが獲得出来る能力でなければならない。

 算数の九九が反復して用いることによって定着するものであるように、音楽におけるそれも反復して用いられることによって定着する技術や知識でなければならない。そして、それを獲得することによって、より良く音楽が理解でき、より楽しく音楽することができるものでなければならない。さらに、誰でもが教え得るもの、教え得たかどうかが測定できるものでなければならない。

 音楽教育における九九の発見こそが、直面する音楽科の危機を救い得る。真剣に取り組まねばならぬ問題である。

   岡山操山高校教諭時代  1984年春 音楽之友社「季刊音楽教育研究」39号による