音楽教室と私

Last-modified: Sun, 17 Feb 2008 20:12:50 JST (3898d)

 昭和31年4月、新任教師の私が初めての授業をしたのは、兼務校の鴨方高だった。音楽教室はなく、定時制の普通教室の一隅に、アップライトピアノがぽつんと置かれていた。本務校の岡山東商高での音楽の授業は、なんと、体育館のステージの上でだった。

 雨の日はフロアで体育の授業がある。ステージとの境にネットは張ってあるのだが、バレーやバスケットのボールがぽんぽん飛んで来て、ネット近くの生徒の頭に当たる。授業にならない。たまりかねて校長に直訴し、体育館脇の準備室、普通教室、調理教室などを転々とした。兼務校の変更で赴任した岡山南高では家政科教室、東岡山工高では途方もなく広い製図教室だった。

 その後、教育委員会勤務を経て総社高に赴任したのは昭和52年の4月。着任したその日校長に呼ばれ、「高原君、本校は野球部と吹奏楽部は作らんからの」と釘を刺された。東商高や南高での私の経歴を知っておられたのだろう。11年振りの授業は楽しかったが、場所は第2物理教室。グランドピアノやステレオ装置もあり、それまでの歴任校の中では恵まれた設備だったが、「俺は音楽教室には縁のない音楽教師なのさ」という、ひがみっぽい思いは拭えなかった。

 昭和57年、北端に新築される校舎に視聴覚教室ができ、音楽の授業にも使用出来ることになった。当時、音楽授業における視聴覚教材の活用を模索していた私にとって、願ってもない朗報だった。早速幾つかの学校の施設・設備を見学した上で、分からぬなりに設計もし、備品などの選定をした。教材提示装置など、あの頃としては花形だったのではないだろうか。

 昭和56年5月には芸術3科の特別教室を含む校舎が南端に新築される計画が決まった。58年の4月から使用出来るとのことで、「教育経験28年目にしてようやく、音楽教室で授業が出来るんだ!」と張り切って設計に取りかかった。天井は高くしたいな、視聴覚教材も活用したい、やがては吹奏楽部も出来るだろうから、楽器庫も必要だろう、将来を見越して空調のダクトだけは備えておきたい、練習室もいるぞ、などなど。

 3月、音楽教室は完成した。音楽部の生徒たちといっしょに引っ越しを始めた。ある日、校長に呼ばれた。岡山操山高への転勤の内示だった。「俺はやっぱり、音楽教室には縁のない音楽教師なんだ」と、真新しいロッカーに楽譜やレコードを整理しながら、私はブツブツつぶやいていた。

 操山高での5年間は『音楽堂』だった。『音楽教室』と表示された室で私が授業したのは、教職生活最後の、岡山城東高での6年間だけだったのである。

 平成9年10月1日発行、岡山県立総社高等学校創立80年記念誌「春霞」による