新米教員奮闘記

Last-modified: Sat, 17 Jul 2010 20:26:55 JST (3016d)

はじめに

 僕に依頼されたのは、岡山東商高の音楽教員として在籍した、昭和31年4月から41年3月までの10年間の思い出を書くことでした。それが中心になるのは当然ですが、それだけでは創部100年を記念して刊行されるこの冊子の前半部分が欠落してしまう可能性があります。そこで見出しにある通り、ほんの僅かに『垣間見た前半50年』について僕が読んだり聞いたりした事柄について述べた上で、全くの偶然ですが後半50年の最初にあたる僕の在任期間の思い出について書こうと思います。

 まず、僕がこの文章を書く上で留意した幾つかの点について述べておきます。

1 学校の名称について 岡山県立岡山東商業高等学校というのが現在の正式名称ですが、平成11年に発行された岡山東商百年史(以後の引用は百年史と略称します)によると、前史にあたる岡山県商法講習所や岡山県商法学校を含めて、岡山県商業学校及び岡山県立商業学校(県商)、岡山県岡山商業学校(岡山商)、岡山県第一岡山商業学校及び岡山県第二岡山商業学校(一商及び二商)、岡山県立岡山商業高等学校(商高=一商の改称)、岡山県立岡山産業高等学校(産高=二商の改称)、岡山県立岡山東高等学校(東高=商高と産高の統合)、と変遷を繰り返し、昭和28年になってようやく現在の校名になったのです。この文章の中では、原則として県商または東商の略称を用いることにします。

2 部の正式名称について 明治39年の創部から昭和38年の生徒総会までは『音楽部』、それ以降が『吹奏楽部』です。本文ではこのほかにバンド、吹奏楽団、音楽隊などの言い方も出て来ますが、一応意識して使い分けたつもりです。

3 個人名の使用について 生徒の名前は、象徴的存在としての初代部長の則武氏以外は一切使っていません。何しろ昔のことで、正直なところ、「こんな奴いたかな?」というように僕の記憶から全く消え去ってしまった人もいるわけで、名前が使われた人と使われなかった人という、心情的な落差が気になった結果です。

4 演奏曲目について それぞれの年度に演奏した主な曲は、記録あるいは僕の記憶に残っている限りなるべく取り上げたつもりです。何をどのように演奏したかということは、その時期に在籍していた部員たちに共通する話題だと思うからです。曲名や作曲者名は正式でなくても分かると思います。

垣間見た前半50年その1 創世記

 創設期と書くのが普通なのでしょうが、江戸時代を起源とする軍楽隊を唯一の例外とすれば、吹奏楽団などまわりには全くなかった時代に誕生した音楽隊ですから、つい旧約聖書的な表現を使ってみたくなったわけで、誤植ではありません。

 さて、話は飛びますが、明治39年に創設され、今年で創部100年を迎えた岡山東商高吹奏楽部の第1回定期演奏会は、今から40年前の昭和41年1月30日、まだ真新しい感じだった岡山市民会館で開催されました。この会については後でもう一度触れますが、とりあえずここでは一枚の写真に注目願いたいのです。

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この写真(1)は当日の演奏終了後に舞台で写したもので、最前列の中央はライオン校長の異名でも有名だった岡潔校長ですが、ここでの主役は校長の右隣(写真では左側)に写っている人物なのです。岡山東商高吹奏楽部の100年の歴史を象徴する、初代部長、県商8期(明治41年卒業)の則武董三郎氏です。

 岡山市議会議長を務められたこともある氏はこの演奏会の当日は75歳だったと話されていますが、挨拶と祝辞を兼ねた舞台でのかなり長い話の後で、生徒時代の懐かしい歌として「美しき天然」を実に朗々と歌われました。同じ舞台で則武先輩は、当時朝鮮総督だった伊藤博文が帰任の途中に岡山駅でしばらく休んだ時(芸者を呼んでの豪勢な休憩だったようですが)、東商音楽部が慰問演奏をしたという興味ある話をされました。明治40年の秋のことだったようですが、肖像が紙幣に印刷されていた人物の前で演奏したとなると、なるほど古い話だなと納得できるような気がするのです。

 創部60年記念ということで企画された第1回定期演奏会の準備にあたって僕は、全国的にも稀な古い存在としての岡山東商高吹奏楽部の歴史を辿るために、則武氏以外にも幾人かの音楽部出身の人たちを歴訪して当時の活動の様子などを聞かせて貰いました。

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写真(2)は創設当時の部の様子がよく判る貴重なものですが、今回初めて気付いたことに、10人で発足した筈なのに11人の生徒が写っていて、楽器も記録よりアルト(らしい楽器)が一つ多いのです。さらに、同じ頃に撮影したと思われる夏服姿の写真では、楽器の数ははっきりしないものの、生徒は12人写っています。

 何故そうなのか知りたくても、今となってはもう調べようもない遠い昔のことです。途切れ途切れな個人の記憶をどう繋ぎ合わせてみても纏まった流れにはなりませんでしたが、僕が調べたり聞き知ったりした遠い先輩たちの活動についての幾つかを、ここで紹介しておきます。

垣間見た前半50年その2 戦前の活躍点描

 東商百年史の年表によると、明治40年3月29日に行われた第7回卒業式には「本校バンド、式場に在り、国歌を奏し校歌を演す」と記録されています。前年の5月19日に練習を開始したばかりでまだ創部1年にも満たない音楽部としては少し早すぎる登場のようにも感じられますが、バンドなど何処にもなかった当時のこと、各方面からかなり期待されていたことは間違いないようです。

 校内の諸行事だけでなく、六高(旧制第六高等学校)や岡中(朝日の前身)をはじめとして、他の学校その他への出演要請はかなり多かったようで、特に運動会シーズンなどは引っ張りだこの状況だったようです。岡女(操山の前身)や山陽女子などの女学校への出演ともなると、一層張り切って出て行ったに違いありません。

 以前から一部の関係者は知っていたようですが、ちょっと面白いことがあります。後で述べる理由から大正6年以降の出来事であるのは確かですが、ある年の野球の中国大会でのこと、対戦していた相手校のスタンドから、突然、「操山みどり…」で始まる県商の校歌が聞こえて来たのだそうです。試合の最中に対戦相手の学校の校歌を演奏するなど奇妙なことです。びっくりした関係者が調べてみたのですが、相手はそんなことはしないと言います。その時対戦していたのは島根商業、現在の松江商業なのですが、自分の学校の校歌は演奏したが敵に当たる岡山商業の校歌など演奏する筈がないというのが返事だったようです。結局のところ、松江商業と岡山商業の校歌はメロディーに関しては同じだったというのが意外な結論なのです。

 ことの源を辿ると、東京育ちの『坊ちゃん』(この小説が発表されて今年で百年だそうです)が松山中学に赴任したように、当時の旧制中学校の転勤人事はかなり広範囲で行われていたという事実に行き当たります。大正3年に岡山商業の第2代校長に就任した堀口米太郎の前任校は、その松江商業だったのです。大正6年に制定された岡山商業の校歌は、作詞は赤木雅二だということははっきりしているのですが、メロディーの方は、堀口校長が転勤のときに持参したものを利用したか、あるいは制定にあたって前任校から取り寄せたメロディーに赤木氏が詞をつけたかのどちらかだと思われます。こんなことが他にもあるのかどうか知りませんが、珍しい例には違いないでしょう。

 戦前の音楽部の表立った活動の一つとして挙げられるのは、様々な趣旨で行われる街頭行進などの先頭に立って、華やかに吹奏しながら行進することでした。特に第3代の野田校長は作詞がお得意だったようで、「生活改善唱歌」「国産愛用歌」「交通安全歌」などの野田校長作詞の様々な替え歌(旋律は既成のものでした)を、吹奏しまた歌いながら行進していたようです。この種の行進は時代の変遷につれて次第に軍事的色彩を強め、出征兵士の歓送などが主な内容になって行ったのは致し方ないことだったでしょう。歩いた距離も長く、学校から岡山駅までだったり、もっと凄いのは練兵場(現在の運動公園です)から護国神社までという行程もありました。人数の少ない当時の音楽隊としては大変な苦労だったようです。

 先生には内緒でこっそり行われていた秘密の活動の一つとして、映画館への出演が挙げられます。つまり、今でいうアルバイトです。

 当時は無声映画で、俳優は口はパクパク開けていますが声は聞こえません。それを一人の弁士が引き受けて様々に声色を使い分けて大活躍していたわけですが、このいわゆる活弁の伴奏として音楽が使われ、どういうわけかクラリネットの出番が多かったようです。先生に見つかれば謹慎は確実という危険な仕事をやっていたある先輩の話では、中学生としてはかなり良い収入だったようです。

 テレビなど勿論、民間放送もなかった当時、日本放送協会のラジオ(当時の正式な表示はラヂオ)に出演するのは大変名誉なことだったようです。恐ろしいことに、録音機器が発達していなかったこの当時は、総てぶっつけ本番でした。赤坂本町の丘の上にあった放送局(網浜の放送局と呼ばれていた)のマイクの前で演奏した音がそのまま直ぐに茶の間に流れていたわけですが、東商音楽部の演奏が電波に乗ったことも幾度か記録されています。音楽部の演奏が放送されるときには、全校の生徒が運動場に整列して聴いたのだそうです。

垣間見た前半その3 空白の数年と復興

 昭和20年6月29日、岡山は米軍機の爆撃を受け、当時もほぼ現在地にあった東商でも殆どの施設設備が被災してしまいました。上級生の学徒動員などで部の活動が休止状態に追い込まれていた戦中の期間を含めて、空襲で楽器や楽譜の総てを失ってしまった東商音楽部は、輝かしい100年の歴史に数年の空白が生まれるという痛恨の事態に遭遇します。

 この音楽部が戦後の復興を果たすまでには、そのための音楽会の開催で資金を調達したり、あるいは廃品回収による収益を楽器購入の一助にするなどの涙ぐましい努力があったようで、東商百年史によれば、昭和24年7月9日に音楽部復興資金募集音楽会が開催されたとあります。

 再興の時期をいつに設定するかについては異論もあるでしょうが、手許の資料によれば、昭和25年11月23日に岡山市公会堂で開催された第1回県下高校ダンス舞踊音楽大会あたりが、校外の行事としては最も古い機会だったのではないでしょうか。編成や曲目などの記録は残っていませんが、演目としては軽音楽の部門で出演しています。戦災で何もかも無くした東商音楽部としては、この時点でいわゆる吹奏楽の編成まで整えるのは財政的に無理だったでしょう。

新米教員の3年間(昭和31〜33年)

 昭和31年の4月、東商吹奏楽部の歴史のちょうど半分にあたる50年前のことです。この年の3月に大学を卒業したばかりの新採用教員の僕は、就任して間もないある日、音楽の教員として初めて音楽部の部室に足を踏み入れました。その時部室にいたのは7、8人程度だったでしょうか。

「この楽器、なんて名前だ?」 「先生知らんのかな、こりゃあアルトじゃあ」 「そうか、ずいぶんちっちゃなチューバだな」 「じゃ、これは?」 「バリトン」 「ふん、じゃ、これがバスか」 「そうじゃ、先生よう知っとるがな」  これが新米教員の僕と生徒たちが交わした最初の会話でした。

 それからしばらくは全く相手にして貰えませんでした。『楽器の名前も知らない』頼りない先生という烙印を押されてしまったのですから、当然のことだったでしょう。合唱なら中学2年生から、変声してすぐにいきなりベートーヴェンの「第九」から始めてずっと続けていましたし、大学4年のときは部長もやり学生指揮者も経験した僕なので、ある程度の自信はあり抱負もあったのですが、吹奏楽に関しては全く何も知らなかったのです。

 本当は東商で合唱がやりたかった僕は、その日から、いわば仕方なしに吹奏楽の勉強を始めました。前年の12月に結成されたばかりの高吹連の加盟校はまだ6校でしたし、県吹連や中吹連は結成されてもいませんでした。今の日本の吹奏楽の、世界に冠たる盛況に比べると、あらゆる意味で歴史以前の状態だったと言えるのではないでしょうか。

 4月の終わり頃だったでしょうか。二人の女生徒が僕のところに来て、「先生、女子は音楽部には入れないんですか?」と聞きました。念のため教頭にも尋ねてみたのですが、別に差し支えないだろうという返事で二人の入部はすんなりと決まりました。何でもないことのようですが、実はこれは、岡山の音楽の歴史を変える大変な出来事だったのです。その証拠に、この話にはこんな続きがあります。

 ある日、岡山球場で野球の応援をしていた時、新聞社のカメラマンが飛んできました。てっきり指揮者も写して貰えるものと思って気負っていた僕の前を無情にも通り越したその人は、後列で吹いていた二人の女生徒にカメラを向けたのでした。翌日の新聞の見出しは、『ブラスバンドに女の子現わる!』という、まるで岡山球場にゴジラでも出現したかのようなセンセーショナルなものでした。どのバンドを見てもつい男の子を探したくなる現在の状況と比べて、なんという隔たりの大きさでしょう。東商音楽部の誇りは歴史の古さばかりではありません。県下の吹奏楽界で最初に女子を受け入れたという進取の気性もまた、誇って良いことなのです。

 私事になりますが、最初の年、昭和31年の6月3日に岡山市公会堂で行われた県合唱連盟第3回合唱祭では、僕は70名の岡山労音合唱団を指揮して「青きドナウ」を演奏しました。これが僕の、指揮者としての岡山初登場でした。

 東商音楽部が参加したこの年の最大の行事は、岡山球場で行われた夏の高校野球の開会式と、それにともなう倉敷市での市中行進でした。しかし結成されたばかりの高吹連だけでは何も出来ず、当時吹奏楽で最も盛んに活動していた倉敷東中学校の全面的援助によるしかありませんでした。但しこの年に限って言えば、「雲は湧き…」で歌い出される大会歌を合唱したのは、わが東商の女生徒150人で臨時に編成された合唱団だったのです。

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写真(3)は31年の体育祭のものです。この年に購入した唯一の楽器、ヘリコンバスが勇姿を見せています。この楽器を購入するまで、東商には大バスにあたる楽器はなかったのです。何となく古めかしくて骨董品のような感じのするヘリコンバスですが、ヨーロッパの軍楽隊などでは今も活躍している現役の楽器です。これを行進向きに、またアメリカ風に見栄えがするように改良されたのがスーザホンなのですが、僕の感じでは音質はヘリコンの方が優れていると思います。

 今もそんな種目があるかどうか知りませんが、当時の東商の体育祭には部対抗リレーという種目があって、珠算部は算盤、速記部はペンといった具合に、それぞれの部の特徴に見合うものをバトン代わりに持ってリレーしたのですが、この年の音楽部は、なんと、そのヘリコンバスを担いで走ったのでした。結構重いのです。当然、最下位でした。それで止めておけば良いものを、結構人気があったようで次の年もバトンはヘリコンバスでした。おまけに走り出す前に一発吹くという取り決めまであったのです。「ブスッ」「ブブッ」など、まともな音は殆ど出ませんでしたが、これがまた人気を呼んで、堂々最下位でテープを切った音楽部に対する拍手は盛大なものでした。見ていてハラハラしました。誰かが転んで怪我をするのも心配でしたが、それ以上に、もう修理は不可能ですよという変な保証が付いていた年代物のヘリコンバスが壊れでもしたらどうしようと、その方がもっと心配だったのです。

 当時は県下高校連合音楽会という名称の、独唱独奏を主な内容にした会がありましたが、吹奏楽だけは団体での参加が許されていて(ジャズは禁止でした)、11月25日に岡山市公会堂で行われたこの会に、東商は13名のメンバーで出演して「浜辺の歌」と「君が代行進曲」を演奏しています。またこの会の最後には、高吹連の合同演奏ということで、邑久、倉工、倉商と一緒に「海兵隊」その他2曲を演奏しました。

 昭和32年6月22日に天満屋の葦川会館で行われた県下高校ダンス・舞踊・音楽大会には、南高と合同で出演して「美中の美」「クンパルシータ」などを演奏していますが、人数などは不明です。また、9月23日には第4回高校合唱祭が岡山市公会堂で開催され、東商音楽部の合唱団(間違いではありません。ちゃんとした混声合唱団でした)がノイコムの「サンクトゥス」を歌ったほか、当時僕が兼務していた鴨方高校(こちらは女声合唱)との合同で「ドイツ民謡」などを合唱しています。

 11月24日には、現在も続いている高吹連の吹奏楽祭、発足当時は発表演奏会という名称だった会が初めて開催されました。コンクールなどなかったこの当時としては、高吹連の年間最大の行事だったのです。この時の東商の演奏曲は「士官候補生」と「アメリカン・パトロール」で、人数は17名でした。参加校10校の中で最も人数が少なかったのは岡工の5名、最も多かった倉工で21名でした。現在の各高校の参加人数の多さを思うと、まさに隔世の感があります。

 多分この年だったと思うのですが、生徒が、「クワイ河マーチ」がやりたいと言ってきました。楽譜などなかったのでレコードコピーしたのですが、これは僕にとってとても良い勉強になりました。

 昭和33年9月、プログラムが残っていないので正確な日付が分からないのですが、多分23日、県下高校第5回合唱祭が岡山市公会堂で行われ、東商合唱団も参加してアダムスの「聖なる都」という曲を歌いました。名前は合唱祭ですがコンクールも兼ねていて、参加校の中から教員の無記名投票で学校音楽コンクール中国大会への出場校を決めるのが慣例でした。驚いたことに、投票の中に東商の名もあったのです。但し、1票だけでした。山陽女子や就実や清心女子、混声では津山や玉野など、今よりもずっと合唱が盛んな学校が多かった頃のことで、商業高校に代表の票が入るなど、ただの1票にしても驚いて良い出来事だったと思います。

 昭和33年11月3日、岡山市公会堂で開催された第2回高吹連発表演奏会で21名の東商音楽部が演奏したのは、「ワシントン・ポスト」と「エグモント」でした。この日の「エグモント」の演奏が、その後の東商の馴染みのレパートリーになったこの曲の東商初演なのです。また、11月22日に瀬戸高で行われた第4回高校連合音楽会でも同じ「エグモント」を演奏しましたが、この時の演奏はかなり好評だったのを記憶しています。

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写真(4)は僕の生まれた家(この頃は瀬戸の生家から通勤していた)の前で、父が写してくれたものです。なおこの年は、僕が東商の教員になった年に入学して来た1年生が最上級生として活躍した年で、言わば最初の高原チームの完成年度という意味でも思い出深い年です。それまでは「音楽部のマーチでは歩けない」というのが定評(?)で、体育祭の入場行進はレコードで行われていたのですが、「試しにやらせてください」と体育の矢木先生を拝み倒して、音楽部の演奏による入場行進が始まったのもこの年からのことでした。

多忙な4年間(昭和34〜37年)

 昭和34年5月30日、岡山市公会堂で開催された第9回県下高校ダンス・舞踊・音楽大会では、東商は「キング・コットン」と「十字勲章」を、南高との合同で「国民の象徴」と「ドナウ河の漣」を演奏しました。

 7月5日には、現在も行われている「山陽学生音楽コンクール」が「第1回岡山県青少年音楽コンクール」の名称で初めて開催され、東商の音楽部からも声楽部門に3名、管楽器部門に2名が参加しています。また9月24日に開催された第6回高校合唱祭では、東商はメンデルスゾーンの「秋の歌」を合唱しています。

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この年の東商の学芸祭は、学校創立60年・校舎落成記念と銘打って行われました。開幕も締めくくりも吹奏楽で20名のメンバーが印刷されていますが、音楽部によるオペラ、小山章三の「赤いろうそくと人魚」が上演され、また混声合唱も歌われています。つまりこの年の音楽部は、吹奏楽をやり、オペラをやり、合唱もしたのです。写真(5)はそのオペラの出演者たちです。

 高吹連の第3回発表演奏会は11月4日に岡山市公会堂で行われ、東商は21名のメンバーでスーザのマーチ5曲をメドレーで演奏しました。繋ぎ方が良かったという評を貰いました。

 昭和35年6月11日に開催された第10回ダンス・舞踊・音楽大会に参加した東商は、接続曲「美しき日本」他を演奏しています。また、6月19日には県合唱連盟の合唱祭が行われ、50名の東商合唱団が「3つのドイツ民謡」などを歌っています。東商音楽部が県合唱連盟に加盟していたのはこの年が最後で、国体の準備などで忙しくなり、合唱にまで手が回らなくなってしまったのでした。また9月23日に行われた高校合唱祭では「3匹の蜂」その他を合唱していますが、東商音楽部が合唱団として外部の演奏会などに参加したのは、恐らくこれが最後の記録だろうと思います。

 全日本吹奏楽コンクールの中国大会が始まったのも昭和35年からですが、主催の朝日新聞の地域割りとかで初めの2年間は山口以外の4県で行われ、中国支部5県が揃って参加し出したのは昭和37年からのことです。最初の中国コンクールは広島市公会堂で行われ、東商は課題曲が「スカイ・ウエイ」、自由曲は「ミリタリー・エスコート」と「ラベンダーの花」の2曲を演奏しました。11月27日に行われた高吹連第4回発表演奏会では、コンクールの課題曲だった「スカイ・ウエイ」の他、「筑紫の旅」と「星条旗よ永遠なれ」を演奏しています。

 昭和36年6月24日、天満屋の葦川会館で、ある珍事が起きました。出演していたメンバーならニヤニヤしながら思い出してくれるでしょうが、山陽放送のテレビ番組「学園の調べ」に南高と合同で出演して、「ラッパ吹きの休日」を演奏した時のことです。ヴィデオなどあったのかなかったのか、ともかくその時は舞台での演奏が直接放映されたわけですが、3人のトランペット独奏者が暗譜でやりたいと言い出し、その方がテレビ向きだろうと僕も賛成しました。

 先ずは無事に演奏が始まったのですが、途中でソリストの一人が勘違いして、16小節飛ばして先に行ってしまったのです。なんだか変だなと感じながらもまだ暫くは演奏を続けていましたが、そのうち混乱が起きました。1人が演奏を止めると次第に止める者が増え、遂にはまことに静かに、この曲の華やかなエンディングとはおよそ似ても似つかないフェイドアウトで終わったのです。つまり、途中止めになってしまったのでした。

 しばらくしてある人に感想を尋ねたところ、題名が「ラッパ吹きの休日」なんだからあれで良いのだと思った、ということでした。今思い出しても赤面したくなる大失敗でした。

 この年から合宿が始まっています。たしか2年間(あるいは3年)は玉野市の山田中学校で、その後は沙美の西海岸でした。この年の中国コンクールは10月29日に出雲市体育館で行われ、東商は課題曲が「ジュビリー」、自由曲はポール・ヨーダーの「ガラスの靴」を演奏しました。県予選は津山商高の体育館で行われましたが、プログラムに記載されている東商のメンバー数は24名でした。ついでですが、この時の入場料は20円でした。

 この年、高吹連副会長だった大岩徳二先生(当時西大寺高校の校長)に作詞をお願いして僕が作曲した「岡山県高吹連の歌」が誕生し、12月3日の高吹連第5回発表演奏会の中で制定記念演奏が行われました。この時の東商の演奏曲は、「祝典行進曲」と「山の偉容」でした。

 なお、東商とは何の関係もありませんが歴史的に興味が持てるのは、8月5日に行われた東京都吹奏楽連盟の吹奏楽祭で、当時全国的に有名だった豊島十中が演奏した曲はワルタースの「西部の人々」などで、この時の指揮者は現全日本吹奏楽連盟理事長の酒井正幸氏だったのです。

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昭和37年に行われた第17回国民体育大会秋季大会(もう『前回の国体』というわけです)の開会式には、9月1日付けで印刷された配列表によれば812名の大吹奏楽団が参加しています。東商からは本隊に20名、他にトランペットの数名がファンファーレ隊として参加しています。写真(6)は競技場前での本番直前の練習風景です。

 結果としては国体史上最多の(質は別として)音楽隊が編成出来たわけですが、『遅れている岡山』というイメージの強かった岡山の吹奏楽を、なんとか他県並みにはしたいという関係者の努力は大変なもので、僕自身も眼の回るような忙しさでした。多分この為だったでしょう、十二指腸潰瘍も経験しました。幸いなことに、国体を機に県費や市町村費などの補助で購入されたかなりの数の楽器(これも質の問題は別として)は、岡山の吹奏楽の以後の発展にとって力強い基盤の一つになったのです。

 この年の中国コンクールは広島で行われ、課題曲は「鬨の声」、東商の自由曲は「エグモント」でした。宿に着いて雑談していた我々の耳に、突然実に鮮やかなクラリネットの演奏が聞こえて来ました。しかもそれは、我々が翌日演奏する筈のエグモントの一節だったのです。慌てて飛んで行った生徒が、帰って来て言うには、「先生、もうおえりゃーせんわあ」。わけを聞いてみるとそのクラリネットの奏者は、同宿している浜田一中の女生徒だったのです。そして浜田一中もエグモントをやるとのこと、全く「おえりゃーせんわあ」でした。翌日の本番ではクラリネットはキーキーの連続、後で聞いてみると「タンポが外れとった」んだそうです。そして12校中12位でした。

 11月23日に行われた高吹連第5回発表演奏会で東商が演奏したのは、「木陰の散歩道」と「イシターの凱旋」でした。

もう一つの母校(38〜40年)

 『はじめに』で触れましたが、岡山東商の音楽部が正式に吹奏楽部に名称変更したのは、昭和38年の生徒総会でその議案が可決されてからです。これまでは色々な名称を使って説明して来ましたが、これからは吹奏楽部に統一します。この年、野球部の夏の甲子園出場を機に、第二応援歌が生まれました。この曲は僕が作詞作曲したのですが、実は作曲した直後から原曲とは違う歌い方が一般化していて(一カ所だけですが)、現在も多分、そう歌われているのではないでしょうか。

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昭和38年度の中国コンクールは初めて岡山県が主管して、多分その年に落成したばかりの岡山市民会館で開催されました。課題曲は行進曲「希望」、東商の自由曲はホルストの第1組曲から「シャコンヌ」と「マーチ」でした。写真(7)はその時のものです。前年の岡山国体をきっかけに部員が増え、この年初めて40人を達成したこともあって、これから後の東商の演奏はかなり充実したものになって行ったように思います。11月24日に行われた高吹連第7回発表演奏会では、 「コバルトの空」「森の輝き」、それに「おけさビギン」を演奏しました。

 昭和39年からは高吹連発表演奏会の開催時期が春に変更されました。第8回のこの会は6月27日に岡山市民会館で行われ、東商吹奏楽部が演奏したのは「エグモント」と「聖者の行進」でした。この時の「エグモント」は素晴らしかったと思います。自画自賛を承知で指揮した本人が言うのですから間違いありません。何度も取り上げたことのある馴染みの曲でしたが、振りながら胸に迫るものを感じました。この曲の仕組み、構成的な全体像が初めて見えたような気がしました。

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この年の中国コンクールは山口県体育館で行われ、課題曲は兼田敏の「若人の歌」、東商の自由曲はカーターの「交響的序曲」でした。初めて達成出来た上位入賞(この頃は完全順位制で、東商は島根の川本高に次いで2位)で、 生徒たちはせっかくの賞状に靴跡をつけてしまうほど驚喜しましたし僕自身も涙が出るほど嬉しかったのですが、僕が特に印象深かったのは、謝金も満足に出せなかった東商吹奏楽部を終始熱心に指導して下さった、福永量夫先生の満面の笑顔でした。写真(8)はその福永先生の珍しい水着姿です。撮影したのは、多分、昭和37年、合宿していた山田中学校の校舎の前でした。

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年度が変わったばかりの昭和40年4月6日、選抜野球大会決勝戦当日の甲子園球場は大変な騒ぎでした。閉会式を始めるから静かにして欲しいという係員の制止の声などお構いなく、3塁側に陣取っていた岡山東商高の応援団席では、優勝を祝う怒濤のような歓呼の雄叫びと新旧校歌の演奏が止め度もなく続いたのでした。1回戦からの全試合を野球部員たちと共に憂い共に喜び合いながら応援し続けた吹奏楽部員たちの眼にも、熱い涙が光っていました。泣きながら吹いていました。東商教員としての僕の10年間の思い出の中で、ひときわ印象深く焼き付いている情景です。写真(9)は大騒ぎにはとても見えませんが、あの劇的な優勝が決まる直前の、期待の籠った静寂の一瞬なのです。

 第9回高吹連発表演奏会は、連盟結成10周年記念演奏会として岡山市民会館で開催されました。この日東商が演奏したのは、コンクールの自由曲として選んでいた「スラヴ狂詩曲」と春の甲子園で耳慣れた曲になっていた、ポール・ヨーダーの「ステップ・イン・マーチ」でした。また、この年の中国コンクールは鳥取の倉吉市福祉会館で行われ、課題曲は「パリスとヘレナ」、自由曲は前記の「スラヴ狂詩曲」でした。

 前年の山口大会での好成績に気を良くして、今年は全日本を目指すのだと張り切って出場したこの年の県予選、実は東商は金光学園に次いで2位だったのです。コンクールが始まって以来、県予選で2位になったのは初めてでした。生徒も僕も、悔しくて泣きました。中国大会では金光よりも上位になって逆転はしたものの、出場しさえすれば1位で県予選を通過して中国大会へ行くという、東商としては言わば当然のことと思われていたコンクールでの結果に変化が現れ始めたのは、この年あたりからのことだと言って良いでしょう。金光学園や就実など、新しい息吹を感じました。

最初の定演、そして転勤

 さて、終章です。本当は39年度からやりたかったのですが、高校の部活動に過ぎない吹奏楽部が、校外でしかも入場料を取って演奏会を開くなど考えられなかった頃のことで、コンクールの中国大会の結果が今ひとつという理由もあって許可されませんでした。幸い山口大会の結果が追い風になって40年度は許可されましたが、葦川会館あたりが適当ではないかという意見が多かったのです。

 強引に市民会館での開催を主張して認められはしたものの、それから本番までの数ヶ月、僕は何度も同じ夢を見ました。颯爽と市民会館の舞台に登場してふと場内を見回すと、客席が真っ赤なのです。当時の市民会館のシートの色は赤でした。つまり、聴衆が誰もいなかったのです。

 この夢は当たりませんでした。現役の部員の努力は勿論のことですが、入場券の販売や当日の運営などへの卒業生の協力は大変なものでした。演奏会の当日、予想もしなかった満員の聴衆で埋め尽くされた客席を見上げて、僕はもう一度、夢ではないかと思いました。60年の伝統の有り難さと重さとをひしひしと感じたのでした。

 その時点では予想もしなかったのですが、結局、この定演が僕の東商での最後の仕事になってしまったのです。3月に入ったある日、校長室に呼ばれました。「高原君、転勤じゃあ」突然言われてムッとしました。「他の学校への転勤ならわしが断るがな、相手が悪い」そんなわけで教育庁への転出が決まってしまいました。退任式の挨拶で体育館の壇上に立った時、東商での10年間の思い出が、何もかもごちゃ混ぜになってワーッと押し寄せて来ました。走馬灯のようにきちんと並んでなどくれませんでした。「僕はっ、此処でっ、泣けたことがっ、嬉しいっ!」それだけしか言えませんでした。退任挨拶の最短記録ではないでしょうか。

 僕は東商を、同じ10年の期間を学生生徒として過ごした玉川学園に次ぐ、第2の母校だと思っています。そして、吹奏楽部の生徒たちこそ、僕の恩師だと感じているのです。

 新米教員奮闘記、これで終わります。

 平成18年5月発行「岡山県立岡山東商業高等学校吹奏楽部創立100周年記念誌」による。


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