小原國芳先生の思い出

Last-modified: Sat, 17 Jul 2010 19:56:41 JST (3017d)

 もうずっと以前から、僕の書斎机の右上に『夢』と一文字書かれた色紙が掲げてある。 大学を卒業する時、恩師の小原國芳先生に書いて頂いたものだ。小原先生は終生、偉大な 『夢見る人』だった。この色紙を見上げる度に、西郷隆盛がお好きだった薩摩人小原先生 の、「馬鹿になれ、大馬鹿に!」という太い声が聞こえる。「進みつつある教師だけが、 人を教える権利がある」という厳しい叱責の言葉も。とりわけこの色紙は僕に、様々な夢 を見させた。

 玉川学園の創設者小原國芳先生との出会いは昭和21年の冬、僕が小学6年生の時だっ た。敗戦直後の荒廃と無気力の中から日本が立ち上がるには教育の力によるしかないと、 保護者対象の講演会で「教育立国論」を説かれる先生、とりわけ、理想の学校の実現を目指す先生の情熱と『夢』の大きさが僕を虜にした。

 その夜、近所の旅館に泊っておられた先生を一人でお訪ねした。その日受けた感銘をつ たない表現で喋る小学生の言葉に耳を傾けられていた先生は、「君、玉川に来ないか」と 突然言われた。翌日担任の先生から、一人で小原先生をお訪ねした無謀さを叱られたが、 同時に、玉川への進学の意志を尋ねられた。「行きたいです。」と僕は答えた。

 暫くして「ニュウガクキョカス」という電報が届いた。戦後の学制改革は翌年からのこ とで、僕の同級生たちは入学試験に合格しなければ旧制中学校には進学出来なかったのだ が、僕は結局入試は受けなかった。風月旅館での小原先生との出会いが、園長自らの面接試 問だったのだろう。そんなわけで僕は、旧制中学に無試験入学した珍しい存在である。

 中学部に入学してしばらくの間、僕はよく小原先生から、「この子は岡山で拾って来ま した。」と、様々な人に紹介された。「拾って来た」という言い方には驚いたが、当時の 塾生たち(玉川には寄宿舎はなく、塾と呼んでいた)の幾人かは、僕と同じように「拾わ れて来た」連中だと後で知った。以後10年にわたる玉川生活の中で僕は幾度となく、玉川 のオヤジと呼ぶことになった小原先生の『夢』に接した。学園全体の財政が破綻し、学校 中のピアノが一夜のうちに姿を消す悲しい出来事に遭遇したり、出版部の本を担いで地方 の学校を回って売り歩く『労作』も体験した。理想の学校の実現に向けられた小原先生の 不屈の闘志は、幾度かの財政危機を克服し、夢は徐々に実現して行った。一つの夢が現実 のものになると、先生の夢は更に膨らむ。教室で受けた教育哲学の講義も魅力に溢れたも のだったが、それ以上に僕を魅了したのは、折々に先生の語られる理想の学校としての玉 川学園の未来像だった。園長は変わっても、創立者の夢は今も生き続けている。

 大学卒業を間近に控えたある日、オヤジの書斎に呼ばれた。卒業生の一人一人に、それ ぞれが希望する言葉を色紙に書いて下さるのが先生の当時の習慣だった。「高原、お前は 何が良い?」そう聞かれて僕は、即座に「『夢』を」と答えた。為書きをして下さりな がら先生は、「努力しなければ、夢は実現しないよ」とごく軽く言われた。ズッシリと 重い言葉だった。

 卒業式の当日には、小原先生は、参列者に対して一人一人の学生についての短い紹介を しながら証書を手渡される。「この学生は中学部から10年間玉川に在学しました。その間 に私は、この学生を3度殴りました」それが僕についての小原先生の紹介だった。式後、 参列していた母が小さな声で、「小原先生、あんなことを言われなくても良いのに」と恥 ずかしそうに言った。僕は母をたしなめた。玉川では、オヤジの鉄拳を喰うのは名誉なこ となのだと。判ったような、判らないような表情で佇む母の傍で、僕は誇らしげに胸を張 っていた。

 僕が小原先生から3度目の鉄拳の洗礼を受けたのは、小田急の電車の中でだった。先生 が突然つかつかと僕の前に歩み寄られ、「お前は何年玉川にいるっ。お前はそれでも教育 科の学生かっ」一喝が終わらぬうちに頬に激しい衝撃を感じた。唖然として見詰める乗客 の視線を気にされることもなく、先生は悠然と元の席に戻って行かれた。かなり遠くの席 に座っておられた先生の眼差しが、下校中の小・中学部の子どもたちの騒がしさを気遣っ ておられるのを垣間見ていた僕には、先生の鉄拳の意味が瞬時に理解出来た。火照る頬を 撫でながら、僕は下級生たちに注意して回った。乗客で込み合う電車の中で、学生を殴る ことの出来る学長が存在する。そのことが嬉しかった。その大学の学生であることを誇り に思った。僕のこの説明を聞いて、母はようやく納得してくれた。

 今僕自身が、僕が玉川に入学した当時の小原先生の年令に達して、改めて僕の胸に、先 生への無限の懐かしさが溢れる。先生に頂いた色紙のお陰で、僕はささやかな夢を持ち続 けることが出来た。「努力しなければ、夢は実現しないよ」と教えられたことに忠実では なかったが、僕もまた終生、『夢見る者』でありたいと思っている。そして、僕の教職生 活最後の2年間を共に過ごした3年11組の諸君にも、万感の思いを込めて、『夢』を持ち 続けることを勧めたい。

1994年初春、教職生活最後の2年間私が担任した、音楽系5期生のクラス文集に綴じ込んだもの