ふるさと二題

Last-modified: Wed, 21 Jul 2010 11:58:26 JST (2832d)

 私の故郷は今でこそ岡山市になったが、平成の大合併までは赤磐郡瀬戸町だった。JR山陽線の瀬戸駅から西に5分ばかりの、瀬戸としては古い町並みの一角に私の生家は今もある。ハーレー・ダビットソンを乗り回すようなモボ(モダンボーイ)だった父が建てたもので、外見は大正の洋館といった風情である。スレート瓦で葺かれていた傾斜の急な屋根は、周りに高い建物のなかったその頃は突出していて、山陽線の列車の中からもよく見えた。

 小学校を卒業すると直ぐ、私は東京に出て、玉川学園の中学部に入学した。昭和21年の4月、日本が無条件降伏という屈辱の敗戦をした翌年のことである。その頃の東京がどんな状況だったかについて知る手掛かりは、今の東京にはもうあまりない。新橋の闇市の様子などは写真には残っていても、遅配(配給が遅れること)どころか欠配もあった、食べる物がなかった頃の東京での空腹感を思い出せる人は、もう岡山にはあまりいないだろう。

 塾の食堂は、朝食と夕食は会食だった。食事の前と後には、みんなが持っていた「愛吟集」という歌集を使って、週番が自分の好みで選んだ歌をみんなで歌うのが習わしだった。新学年が始まってしばらく経った頃、無神経な週番の指示で「ふるさと」が歌われ出すと、何処からか啜り泣きが聞こえて来ることもあった。ホームシックの真最中に「ふるさと」を歌えなどとは、何とも残酷な指示だったのである。

 「兎追いし…」と澄まし顔で歌っている先輩たちの中にも、ホームシックの経験者は沢山いる。夕食の時はなんとか我慢できたとしても、自室に帰って、布団の中にもぐり込んで、枕を抱いて忍び泣いた経験は殆どの塾生が持っている共通の思い出ではないだろうか。それぞれがそれぞれの故郷を思い描きながら歌った「ふるさと」は、10年間の私の塾生活の中で、特別な意味を持つ懐かしい歌なのである。

その1 「兎追いしかの山」

 私にとっての「ふるさとの山」は、鉄砲山という物騒な名前の山である。これが通称なのか、それとも国土地理院の地図にもその名前で載っているのか、調べたことはない。その鉄砲山は西北の麓を瀬戸駅に接して東南に、けっこう急な角度で立ち上がっている。幾らか登ったところに大きな花崗岩で造られた「忠魂碑」があって、小さな頃には登っても良いのは其処までだった。その辺りでは熊山に次ぐ標高の山だったらしく、子供の頃の記憶では、頂上まで登ると松林を通して遥か遠くに海が光っていた。

 私はこの山で、兎を追った経験はない。見たことは幾度もあるが、兎など捕まる筈がないと諦めていたから、追い掛けたことは一度もない。しかし木登りは好きだったからよく行った。特に、登りにくい赤松によじ登って、「とり餅」とか「餅の木」とか呼んでいた宿り木を採るのが得意だった。米粒より少し大きいくらいの鮮やかな緑色の実を割って、芯のところを集めて噛んでいると、次第に粘り気が出てくる。この宿り木が「とり餅」と呼ばれていたのは、噛んで餅のようになったものを竹竿の先に付けて小鳥を狙うと、くっついた小鳥は逃げられなくなってしまうということからだったようだ。

 「取り餅」だったのか「鳥餅」だったのか、それは知らない。それに私は、竹竿に小鳥がくっついているのを実際に見たこともない。滑りやすい赤松に登って「とり餅」の枝を折り取ってくるのが身軽だった私の役目で、ほんの少し褒めて貰えさえすれば、本当に小鳥が捕れようが捕れまいが、そんなことはどうでも良かったのである。

 木登りは山登りと同じで、登る時よりも降りる時の方が危険なのだ。折り取ったとり餅の木は投げ落として下で待っている仲間に渡してあるから素手なのだが、赤松の木は滑りやすいから注意してゆっくり降りないと、一度滑り出したらもう止まらないだろう。疲れると松の幹に縋り付き、両足もしっかり絡めつかせて、蝉に成り切って少し休む。もうすぐ地面という所まで降りて来ても、決して飛んではならない。小さな竹の切り株の上に飛び降りでもしたら、足の裏を踏み抜いてしまうからである。

 ささやかな冒険を終わって、まだ流れにはなっていない小さな湿地の湧き水を掌に掬って渇きを癒すと、仄かな甘みがあり、振り返って見下ろす瀬戸の町並みはおもちゃのように可愛らしかった。

その2 「小鮒釣りしかの川」

 「ふるさと」を聞いて真っ先に私の脳裏に浮かぶのは、実は「鉄砲山」ではなく「砂川」だった。それも、姿の見えない魚を糸を垂れて待つ『釣り』よりも、目の前をスイスイと身軽に行き来する、見えている魚を『網で掬い獲る』方がずっと好きだった。「景介は砂川の主だ」と両親などによく言われた。

 「ただいま」とランドセルを置くやいなや直ぐ、てんごー網と呼んでいた小さな丸い網と追い棒とバケツを持って、「行ってきま〜す」と家を出る。駅とは反対の西に向かってやはり5分くらいか、吉井川のような大きな川ではないが、その名の通り砂の美しい川だった。

 網を受ける場所はその日の水の量や流れの速さによって微妙に変わるが、追い棒の使い方は変わらない。普通に考えれば流れの上の方から順に突っついて網の方に近づけて行けば良いように思えるのだが、それでは魚は網にはなかなか入ってくれない。

 網を受けて少し間を置いてから、追い棒の先を自分の足下から上流に向かって動かすのがコツなのである。特にハヤ(はえと呼ぶことが多かった)の類いの細身の魚は、追い棒の動きとは逆の方向に逃げることが多いからだ。それに対して鮒やはぜの仲間などの体が太くて動きの遅い魚は、素直に追われる方に逃げることが多かったように思う。

 食べて美味しいのは細身の魚の方だから獲る興味も自然にそちらに傾く。ハヤの動きは素早い上に、体が水の色に似ているので見えにくい。不思議に眼の所だけはよく見えるので、それを頼りにして、入ったと感じた瞬間に網を上げる。魚の姿の見えにくい所では網を持つ手に伝わる微妙な手応えだけが頼りで、少しでも遅れるとスッと逃げられてしまうので、これが大変難しい。

 首尾よく獲ってバケツに入れてからも、ハヤの跳躍力は凄いからよほど注意しないと跳ね出て逃げてしまう。予備の網があればそれを水を入れたバケツに浮かせておけば一番安心なのだが、いつも予備の網を持っているような贅沢ができるわけはないから、水辺のなるべく幅の広い木や草の葉を摘んで水面に並べておくのが普通だった。

 今では飛んでもないことなのだろうが、鮎もどきやたなごの類いが獲ってはいけない魚になるなど、その当時は思いもよらなかった。鮎もどきはハヤに似た味だったし、たなごの腸の苦みは父の大好物だったから、たなごが豊漁だった日にはちょっとした親孝行ができたような気分になったものである。

 「ふるさと」の歌は一時、2番までしか歌われない時期があったように記憶している。3番の歌い出しの「こころざしをはたして、」が立身出世を促しているように感じられたためらしい。しかし、3番の後半の「山はあおき故郷。」は1番の歌い出しの「兎追いしかの山、」に、「水は清き故郷。」は「小鮒釣りしかの川、」にそれぞれ対応しているわけで、この歌は3番まで歌われなければ完結しないのである。

(注1) 小学唱歌の「ふるさと」は漢字で「故郷」と表記されるのが正しいが、ここではあえてひらがなを使った。「こきょう」と読まれるのがイヤだったからである。題名以外の歌詞については、堀内敬三・井上武士編のワイド版岩波文庫54「日本唱歌集」(1991年発行)の表記を参照した。

(注2)この文章に出てくる「鉄砲山」について、私はこれが通称か正式名称か調べたことはないと書いているが、国土地理院の地図にちゃんと載っていますと教えてくれた教え子がいる。その指示通り調べてみると、なるほど載っている。ただし、あの辺りでは熊山に次ぐ高さの山だと聞かされていたのは誤りだったようだ。私の文章でも読んでくれる人がいるのだと知って嬉しいと思うと同時に、責任も感じている。